
創業者 宮永恒良 岐阜の機械部品加工会社へ就職
生まれ育った宮崎県国富町より工場で働く事を夢見て、職業安定所を頼りに岐阜へ。
その後、愛知県のいくつかの部品加工会社での勤務を経験する間に技術を磨き、自分の工場を持つことを考え始める。
株式会社ミヤナガ創業より50年。
その軌跡を振り返りました。
生まれ育った宮崎県国富町より工場で働く事を夢見て、職業安定所を頼りに岐阜へ。
その後、愛知県のいくつかの部品加工会社での勤務を経験する間に技術を磨き、自分の工場を持つことを考え始める。
身に付けた技術を生かして開業。
機械を購入する資金もない中、商社と交渉し手形を切ってもらう。当時の価格で97万円。
この一台の旋盤から、ミヤナガの歴史は始まる。
当初はミシンの修理を請け負い、のちにミシンの部品の生産に移行。しかし、1本500円ほどの刃物を何本も買うことができないため、1つの製品の加工をするのに、1本の刃物で粗削りをし、その刃物を加工して二次加工、三次加工をし、そこで出た削り屑を鉄クズ屋へ売り新しい刃物を購入するなど、常に創意工夫をし、コツコツと借入を返済し続ける。
1年経たずに各務原の貸工場に移転。
機械2台が入るほどがやっとの土間に、夫婦でセメントを打って設備を入れた。
高度経済成長期と共に順調に業績を伸ばす。
各務原市那加住吉町の工場に移転。
機械設備を10台ほどに増やした。当時の主要業務はミシンの大型部品生産だった。
各務原市金属団地の現在の工場に移転。
高い技術力が評価され、大手機械メーカー、繊維機械メーカーなど多くの顧客を抱え、更に業績を伸ばす。
1つの分野に製品を絞らず、多岐な分野の業務を請け負っていたためバブル崩壊の影響にも耐え、堅実な経営を続け、資本金の増資に至る。
本社工場近くに第二工場を操業。大量生産のものづくりが海外に流出する中、付加価値の高いものづくりを目指し、顧客の多様化する要望に応えるべく、多機能な新設備の導入を進める。
私たちを今まで支えて下さった皆様に心より感謝し、
これからもより良い製品づくりに取り組みます。
創業者 代表取締役会長 宮永 恒良
目の前の状況を変えるために、一つ一つの仕事を納品するのに、必死だった創業期ですが、私は努力をしたとは思っていません。旋盤の仕事が面白くてたまりませんでした。
今でも誰よりも早く出社して機械に向かう日も多いです。
創業当時とは、人も、機械も、時代も変わりましたが、人の大切さは変わりません。機械が発達しても使うのは人間だからです。これから先も、当社が人を育てることと、時代に合ったものづくり、お客様が求めるものづくりをご提供し、信頼にお応えし続けることを心から願います。